パンケーキはブスの食べ物

あくまで可愛いのはパンケーキであってわたしではないのだ。

現実みたいな夢、夢みたいな記憶

「記憶は人工的に作ることができる」という。

実際、可能である。しかも、科学の力を使わずとも人間はやってのける。

統合失調症認知症のような病気は、まさにそれに該当する。

 

夢か現実か、わからない記憶が私の中にもある。

きっと、幼いころに見聞きした現実が断片的に残って、

それが夢や想像で脚色されたのだと思う。

 

2つ。

1つは、美術館のような長い廊下と中庭のある平屋の屋敷に私はいる。屋根は赤く、外壁はとなりのトトロに出てくるメイとサツキの家みたいな木材、少し年季を感じる。あまり日光は強くない。中庭に花はなく、背丈の低い木や草がある。その美術館の廊下で、壁にかけられたムンク「叫び」を眺めている記憶。

 

もう1つは、遠くから幼稚園児が遊ぶようなキャッキャした声が響く中、右側は木々が生い茂っている。車が1台通れるような細めの道路に、木漏れ日が影をつくっている。おそらく五月。緑が鮮やかな午後。道路の右側は木々。左側には幼稚園がある。そこを歩いていくと、急に視界が広くなる。利根川に出る。河川敷ではなく、空港の滑走路のような広い道路と芝生がある。2,300m歩くと、右手にトタン屋根の小さな家屋が1軒だけ見えてくる。駄菓子屋。水あめを買う。30円。っていう記憶。

 

どっちもカラーで記憶されている。しかも小学生くらいから知ってる。

これらの記憶に出てくる私自身は7歳くらいなの。

夢は眠っている間に記憶を整理するために見るもので、その多くを目覚めとともに忘れてしまう。

じゃあ、この記憶は夢じゃないのか、と考えてみてもどうも現実味が薄い。

20年近く利根川の河口に住んできてこんな土地ないし。

不思議。

 

 

夢も現実も、すべては自分自身の「認識」が生み出すものだ。

友人や恋人が、第三者に話していることと私が感じていたことが食い違うように、

誰にとっても平等な時間、現実は、ひとりひとりがどう受け止めるかで感じ方もあり方も変化する。

誰かにとっての正義や現実がたとえ自分のそれらと食い違っても、

否定せず受け入れたいと思う。