パンケーキはブスの食べ物

あくまで可愛いのはパンケーキであってわたしではないのだ。

おばあちゃんは今夜も夢に立つ

昨夜もおばあちゃんの夢を見た。

 

 

私の祖父母は四人とも既に他界している。

一番早くにお別れをした父方の祖父の十三回忌が、先月執り行われた。

当時、私は中学生だったか、高校生だったか、もう覚えていないが、とにかく12年前に亡くなったのだ。

父方の祖父母は同じ市内に住んでいた。

週末になると、しばしば遊びに行った。

お盆には親戚が集まり、甲子園が延々と放送される居間でスイカを食べた。

お正月にも集まり、お年玉をもらって、箱根駅伝が放送される居間でミカンを剥いた。

やがて祖父は寒い冬の日に救急車で運ばれ、数ヶ月か一年くらい入院して、息を引き取っていった。

 

父方の祖父に関する記憶は少ない。

寡黙で勤勉であり、子供を可愛がるということはあまりしない人だったように思う。

 

私はおばあちゃん子だ。

小学校3年生まで、母方の祖父母と同居していた。

同居していたといっても、母屋と離れにそれぞれ住んでいた。

庭には、ミカンの木、渋柿が2本、甘柿が2本、梅の木が2本、グミの木が1本あり、他にも金木犀、ヤシの木、ソテツ、ヤツデ、楓、槙、アロエ、除虫菊、菜の花、シソ、どくだみ、なんかいい感じのコケ、結構広い畑、金魚鉢があった。

 

季節ごとに、梅、菜の花、楓、椿、が庭に彩りを添えていた。

 

幼い自分にとっては庭がとても広くて、じじいが焚き火して芋焼いたり、アオダイショウやイタチが出たりした。ときどき、金魚は猫に食べられて姿を消す。

雨の日も雪の日も、どの季節も楽しい庭だった。

 

両親共働きだったから、放課後はおばあちゃんのいる母屋で暮らした。

母が遅くなる時は、おばあちゃんが夕飯を作ってくれて、唐揚げをつまみ食いした。

夏休みも、冬休みも、おばあちゃんちで宿題を進めた。

引っ越ししてからも、放課後はおばあちゃんちに帰った。

高校生になり、じじいがガンを患った。同居する叔父もガンを患った。やがて、おばあちゃんはひとり暮らしになった。

でも、私たち孫がよく遊びに行ってたから、おばあちゃんは元気でいてくれた。

3.11があった時は、おばあちゃんちで電気が回復するのを待った。寒くて怖くて眠れない夜でも、避難所よりよっぽど安心できる場所だった。

 

その後、おばあちゃんは私の成人式、弟の成人式、妹の成人式を見届けた。

 

2017年、私は彼と同居をはじめ、彼の実家に挨拶に行った。7月だった。その帰りに一本の電話をもらった。母からだった。

 

「おばあちゃんね、ちょっと具合が悪くて入院することになった。輸血することになったけど、意識はあるから、来週にでも帰ってきてちょうだい」

 

そうなんだ、お盆に帰省するつもりでいたけれど、スケジュールを組み直そうかな。

ベッドに潜り込み、眠りについた。

 

遠くでiPhoneのバイブが聞こえる。未明、母からだった。

 

おばあちゃんは眠っている間に、息を引き取った。

病院に搬送されても、どこの病院の何階で、どのあたりの病室なのかハッキリ言えたという。

入院する前の1週間は、急に元気がなくなり、食欲も落ち、桃を一切れ、ふた切れ食べたそうだ。

 

 

葬儀が終わってから、もう2年経つ。

他の祖父母は一回もきてくれないのに、おばあちゃんだけは定期的に夢に立つ。

唐揚げや酢の物、ポテトサラダをよく作る姿、こたつでテレビを一緒に見たり、なんてことはない日常の記憶が再生されている。

いまだに生きているような気がして、目が覚める。

成人式をあんなに喜んでくれたおばあちゃんに、結婚式を見せてあげられなかった。

 

 

 

十三回忌の法事で、僧侶は話していた。

法事で親戚が集まり、故人を偲んで話すことが供養になること。

急に大切な人がいなくなることは受け入れがたいものであるが、少しずつでも生活になじんでいけること。

忘れたり思い出さなくなることは悪いことではなく、悲しみから抜け出せている証。

 

お別れは、花を手向け、火葬し、祈り、拝み、念仏を唱え、煙を薫せ、墓に納めるだけではない。

もっと長い時間がかかる。ずっとお別れをし続けなければいけない。

夢ではない場所で、会いたいと思う。

 

おばあちゃんちには、今頃、赤い椿が咲いているだろう。